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依存から自立へ [幸せになる勇気]

誰もが生を受けてからの赤子の頃~社会にでるまでは己の力のみで生きることは出来ないものである。
そのため、親に愛されること、養われるために機嫌を取るということを意識的にしろ無意識的にしろやっている。

しかし、いずれ自立し独り立ちしなくてはならない。
親も永遠の存在ではない以上生きていくには自立する力が必要である。

それゆえ人は自立に向かって努力しなくてはいけない。
根本的には生きるためである。

自分には生きる価値が無いからと何もやらない人はいるが、それは目の前の課題である仕事や対人関係に踏み出す勇気がくじかれたために、行動に出れない(行動しない)自分を守るための心理だったりする。(それ自体は悪いことではない。心の防衛本能だし。ただ、そのままでは何も変わらない。)


さて、話を戻そう。
人は生まれた当初は自立できていない。
だからこそ自立に向けて歩みをすすめていくのが大前提とするなら、自立するにはどうするかということになるが、アドラー心理学では人を愛することでしか自立は成し得ないともいわれている。

誰かを愛する。
無償の愛を貫く。
確かにこの姿勢に依存心は微塵も感じられないだろう。

だが、それが自立といえるのかどうかと言われると考えてしまうところである。

私個人の自立に対するイメージは一人で生きていけるようすべての衣食住を自分で賄うこと。あるいはそのための手段を準備すること。そしてそれが継続できることではないかと思っていたが、それにプラスして誰かを愛することが出来ないうちは自立ではないとこの本では書かれている。

その理由として
誰かを愛せない=愛に踏み出す勇気がない=愛に担保を求めている
「相手が自分を愛するなら自分も相手を愛する」という依存心があるからだという

確かにそう言われると愛せないのは依存であるといえるかもしれない。
多くの人はなんの保証もないのに誰かを愛することは出来ないだろう。
論理を逆転すれば、保証があれば誰でも愛せるとも言える。

これは確かに依存である。

この状態をダンスホールの隅っこで誰かが手を差し出すのを待っている状態だと例えていたが、コレはわかりやすい例えだと感じた。

目の前の相手に対して精一杯のダンスを踊る。それが幸せになる勇気、愛する勇気だとある。もちろん自身がそれを踊れたとしても相手は全く踊れないかもしれない。それでも一緒に踊れるかということだろう。

相手がうまく踊れないうちは不格好なダンスになるし、そのせいで周りから指さされることもあるだろう。それでも踊り続けることが出来るか。相手も踊れるようになると信じて一緒に踊り続けることが出来るか。

そういうことなのかもしれない。


長くにわたってアドラー心理学ネタを書いてきた割にまだまだ知らないことはあるだろうけど、これからもこの本で学んだことを考え続けていこうと思う。哲学に答えはないし終わりもないとあったが、それこそ研究しがいのある課題だと思う。

自分の人生を通してこれを考え続け、実践していきたいと思う。
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